3本の斑の紐 1997.11

水谷久康

    ユルゲンは、手慰むかのようにしていた3本の長さの違う黄色の紐をテーブルの上に置いた。そしてワークショップは始まった。彼は背が高く、足が長く、金髪でスカンジナビア地方の人々を思わせる外見をしていた。その彼は、北ドイツの田舎の臨床家であるという。

    まず彼が我々に示してくれたのは、クライアント(彼の定義ではkundlnクンデ)の沈黙への見事な対処の仕方であった。

    ドイツ語のKundlnは英語では、Customerに相当するという。

    …これを聞いた瞬間、私の頭の自動回路は、Solution-Focused Approach の言うセラピスト-クライアント関係でのカスタマータイプのイメージを浮かばせた。…

    「コンストラクティビズムでは、すべてのクライアントをkundlnと呼ぶ。」と言う彼の言葉は私に混乱を生じさせた。ようやくSolution-Focused Approach になじみ始めた私の頭の中では、「ビジターは?コンプレイナントは?どこへいってしまったのだろう」という疑問が渦巻き始めていた。そして私のこの混乱は、ワークショップの最後に私が行った質問への彼の回答まで続くことになった。

    しかし、そんなことはお構いなしに、彼の情熱に満ちたワークショップは続いていった。冒頭で行われた3名のワークショップ参加者の沈黙に対する彼の対処法は、なぜすべてのクライアントが、ビジターでもコンプレイナントでもなく、kundlnなのかという私の疑問について答える最初のものとなった。沈黙する3名のワークショップ参加者(クライアント)に対して、彼はただひたすら待っていた。「時間は十分にあります。」というメッセージを添えながら。

    しかし、その彼の姿勢や表情は、まるでクライアントを回答へいざなう強い拘束力 を持つように感じた。彼らは、沈黙を続けるのが苦しくなったかのようにまもなく話し始めた。

    カウンセリングにおいて、しばしば経験することだが、クライアントの沈黙は、セラピストを(おしゃべりなセラピストは特にそうなのだが)不安にさせ、セラピストに沈黙を破らせる拘束力を持つ。しかし、kundlnであれば、その沈黙はセラピストを不安にしない。

    ユルゲンは、kundlnの沈黙は、彼らが「答えない」ということなのではなく、答えるために考えているのだと述べた。ドイツ語のKundlnには顧客という意味のcustomerという意味のほかに、知識を持つ専門家という意味合いもあるのだ。だからKundlnであるクライアントは、彼らの望むことについて最も良く知るエキスパートなのである。それゆえ、沈黙を続けるクライアントに対し、「真剣に考えていることがわかりました。それは重要なことであり、良いことです。」というメッセージを出すこともあるという。

    彼らの沈黙は「無」を意味するのではなく、「創出」を意味するのである。

    ユルゲンはクライアントのI dont know.への対処法もいくつか示してくれた。ご承知のように、クライアントのI dont know.は、セラピストのモチベーションを強力に低下させる拘束力を持つ。セラピストはI dont know.を聞くたびに意欲はそがれ、I dont know.の大量攻撃を受けるとついには廃人と化してしまうセラピストも多い。しかし、kundlnである限りI dont know.の前でもセラピストはたじろがない。ユルゲンはI dont know.というkundlnに対して、「それがわかったときにはどんな答えになると思いますか?」と問いかける。あるいは「そのことを知ったとして、それがどのように役立つでしょうか。」と問う。つまり、あくまでもkundlnは答えることができるのである。kundlnである限りソリューションインタビューからは逃れることができない。ユルゲンはこういう。「答えたくなければ答えないようにしてください。それはあなた自身が自分のことを気遣っていることですから。そのことを知ることは(セラピストである)私にとって役立ちます。私があなたの立場だったら、やはり初めあった人には自分のすべてを話しにくいですしね。再び同じ質問をするかもしれませんが、答えたくなければ答えないようにしてください。」

    クライアントが答えなければ、『私は今、自分のことを気遣っています』と答えることになってしまう。この見事なダブルバインドで、クライアントはkundlnとなる。

    つまり、クライアントをビジタータイプとするのもコンプレイナントとするのも、実はセラピストである事が、私には分かってきた。

    ここにユルゲンの構成主義の本質が現れているようだ。クライアントにとっての「問題」は、問題であるから、「問題」なのではなく、「問題」として意味付けがなされているから問題なのである。同様に、意味付けによってクライアントをビジターとするのか、kundlnとするのかはセラピストなのである。

    彼は、「セラピストはクライアントに望みを与えるのが仕事なのである。」という。そしてそのためには、「世界はユニバースではなくて、マルチバースなのだ。」と。つまり何が間違っている(問題である)のか、正しい(解決である)のかではなくて、日々の生活の中にあるクライアントの資源や能力の中から、より多くのオプションを彼ら自身が見出す事のできるような支援をどのようにするか、なのである。

    そのために使う言葉は、「である」を使わずに、「であるかのようにみえる」を使う。すなわちクライアントの現在を固定化された状態という文脈の中に置くのではなく、変化しつづけるプロセスという文脈の中に置く。これにより問題以外の可能性を探す事が可能になる。

    彼はセラピーで使われるメッセージを、それがバーバルであろうとノンバーバルであろうと、貪欲にクライアントの問題解決への支援の為に使う事を意図しているように感じた。彼の言葉の使い方は自動的に、問題からの離脱への変化のプロセスへといざなう事になる。すなわち、クライアントばかりでなくセラピストも解決へのプロセスへと向かわせる拘束力を持つ。まさに、セラピューティック・カンバセィションである。

    彼は初回面接時に、面接の責任者はクライアント自身であり、次回面接をするかどうかはクライアントが決めることだと伝えるという。また、彼はセッションがうまくいかないとセラピストが感ずる時、それはクライアントがセラピストを変えようとしているのであり、その時、セラピストはより注意深くするべきである。とも述べた。あくまでもクライアント、すなわちkundlnこそが、エキスパートなのである。この彼の発想には、クライアントに対する徹底した尊敬を感ずる。

    ワークショップ参加者の質問に対して、クライアントのソリューションと、例外と、資源と、長所についてしつこく尋ね、尋ねる事で一定の緊張感を生んでも、クライアントの述べる事をきちんと理解する為であり、その事がセラピストをひいては楽にするのだ。という彼の言葉を聞いて、S.F.A.と同じだな。と考えた私の目の鱗が緩んだのは、インターセッションについて、1ヶ月程度、いくら短くしても1週間にはしない。というの彼の説明であった。

    さらに、セッション中のブレイクについて私が行った質問への答えで、目から鱗が落ちた。S.F.A.であれば、その効果が強調され、必ず行われるブレイクについて、彼は「この7年間、ついぞセッション中にブレイクをとった事はない。」と、当然のように答えた。「なぜならばセッション中のプロセスのすべてに参加できるではないか。」と。

    コンストラクティヴィズムに基づく彼のアプローチは、MRIでもなくBFTCS.F.A.でもない、それらの長所を取り入れながらも彼によって再構築されたものなのだ。とようやく理解できた。ワークショップの最後になって始めて、ユルゲンのコンストラクティヴィズムが私の中にコンストラクションされた。

    短期療法について、MRIにしろBFTCにしろ、こうであるべきである。ではなく、MRIのブリーフセラピーセンターに始まる短期療法の精神を、どのように実現していくのかという本来のあり方をユルゲンは私たちに示してくれたのだ。世阿弥の言う「守・破・離」をドイツのセラピストに教えられた思いがした。

    しかし机の上に準備された3本の紐はいったい何であったのか。そのなぞは最後まで残り続けている。

トップページへ