ポール・ミッシェル・フーコに学ぶポストモダン

2000.8
若島孔文 /
財団法人ふくしま自治研修センター

 “ポストモダニズムは弱者救済の思想であり、運動である。”というのが筆者の結論である。よくモダンは一元的であり、ポストモダンは多元的であるというのは一体どういうことであるのか?

一言でいうとモダニズムにおける一元的な価値観とはマクドナルドに見られる「効率的で」「はやい」「美しい」「強い」などという価値観のことである。マクドナルド、いわゆるマックであるが、そこでは以上の価値観を体現すべくマニュアル化されたものに、機械のように従順に従える従業員が昇進していくことになる。そこには性役割も明確である。感情労働は女性が、肉体労働は男性が行うのである。女性はカウンターにおり美しく、そして男性は汗だくで調理場にいる強い存在である。

ブリーフセラピーもまさに、「シンプル」「エレガント」「イン ブリーフ」という言葉に見られるように、モダンの価値観を正確に体現していることは言うまでもない。

1.パノプティコンと資本主義社会

 フーコーが例に上げるパノプティコンと言われる刑務所があった。パノプティコンというのは、扇状になった囚人の牢獄を、その弧の中心にある管理棟から効率よく監視できるシステムである。さらに牢獄の弧の外側から光がさすように作られており、監視等からは一発で囚人の動きが監視できるようになっている。一方で、管理棟の方には光が届かず暗いことから管理者の動きは囚人から見えないような仕組みなのである。従って、管理者は常にいなくても良いわけである。パノプティコンは「効率」を重視したモダン思想を具現した象徴的モデルである。

 資本主義社会は、効率というものを求めてきたことはマックの例から理解されよう。また、オリンピックも同様である。モダン思想の象徴である(スポーツの中ではカバディーぐらいがポストモダンに近いと言えるのだろうか?)。日本でいえば強い国家を目指した明治・大正時代以降の学校教育、第二次大戦後では資本主義社会を支えるべく人材を育てる学校教育がモダン思想を具現した。学校教育では「勤勉で」「清潔で」「規則を守れる」「従順で」「自律的な」人間を作るかがその目的となった。それを実現するのはパノプティコン的学校システムであった。一箇所に大量の子供を集め、集団で一斉授業を行う。そして、監視、規則、試験、体育、生活指導、序列化(席順、成績、偏差値)を徹底することがその目的にかなっていた。

2.ポストモダン思想の到来

 ポストモダン思想の到来は、フランス思想界における自由への闘争から始まったと言ってよい。以上のような一元的価値観では救われない人間の方が多いことは言うまでもない。ほとんどの人々は筆者のように「効率が悪く」「のろまで」「醜く」「弱い」からである。

フーコーは同性愛者であったことはご存知のことであろう。彼は歴史の中に異なる価値観が存在している証拠を探したのである。モダン思想の一元的価値観は普遍的ではないことを歴史の中に発見していく。同性愛がギリシャに一般的に見られたことを発見する。すなわち、彼は現在の価値観というものが歴史の中に不変的でないことを提示し、他なる可能性を示唆したのである。彼にとっては真実は歴史の中にあったということであろうか?

3.ナラティブセラピー

 ナラティブセラピーはそうした潮流の中から発生してきたものが多い。ポストモダンのセラピーとは他なる可能性を示唆することなのであり、専門性を捨てるという言葉は、その本質からは若干ずれるのである。フーコーは決して権力を否定しなかったのだから。すなわち、他なる可能性としての「専門性を捨てるセラピー」の発生であり、それが全てであるとして跳び付き、流行に流される時点で、その目的自体が崩壊するのである。

 フーコーはあたり前すぎる程あたり前のことに目を向けた。そのあたり前のことが人間の行動を根本的な部分で統制しているからである。それは時代であり、風土、文化でもある。今日において無意識を抑圧されたものの器として捉えるよりも、むしろあたり前すぎる程あたり前のこととして捉える方が人間行動の説明と予測に役立つかもしれない。あたり前すぎる程あたり前のことというのは他ならぬ前言語である。そして前言語を扱ってきたのがシステミックな家族療法であったのである。ブリーフセラピーはモダン思想とポストモダン思想の両側面を持つということであり、モダン思想を切り捨てることがフーコーが述べた主張ではない。なんとも愚かしい現状なのであろうか。ポストモダンでなくてはならないという専門家がなんと多いことなのであろうか。

謝辞:以上のフーコーについての議論は立正大学文学研究科の小野寺哲夫氏の講演を参考、要約したものと言ってよい。小野寺氏に心より感謝いたします。

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