ITCでのインスー 追悼メッセージ
長谷川啓三 東北大学

いつもはインスーがメールでSFAやMRIの仲間の状況を教えてくれる。しかし今回は、それがなく、その訃報を疑っていた、いや信じたくなくて、今日まで来てしまった。しかし、やはり、インスーは、1月10日にフィットネスのジムで亡くなってしまった。
ITCには、何度来ていただき教えていただいたことだろう。
いつもの研究会の小さな部屋にもである。ご一緒に皆で瀬戸へ旅行し、焼き物をつくったことがある。ソウル在住のお兄様もみえられたことがある。ドランやシュタイナーらも伴っていらしたこともある。そんなとき「マスミ、マスミ」とこちらでのマネージャー役の児玉真澄先生の名前をよく呼んで、ワークショップの打ち合わせをしてくれていた。ときに食事中のスタッフは苦笑もしていた。インスーの発音では「マズゥミィ」と聞こえるからである。
そんな楽しい思い出も貴重なワークの記録もITCに多く残したまま逝ってしまった。
かつてミルウォーキーの、ご自宅で一ヶ月を過ごさせていただいた。夕食は、多くスティーブが腕をふるってくれたが、少年裁判所の見学も、ご親戚と研究者の紹介も、シカゴ中にあるライトの建築群の案内も、地下室でのビール作りも、大リーグ最弱のブルワリーズの仲間を集めての観戦もが、みんなインスーが、まだ若い日本からの一研究者のために、そのマネージメントを喜んでやってくれた。それは今考えてみると、その後に世界的に名を成す夫君、スティーブのための応援でもあったろう。
母だった思う。我々にも、そして誰よりも、夫であるスティーブに。天才肌の夫をよく支えていたと思う。日課であった毎朝の散歩も、ご自分のためよりは大柄のご主人のためであったろう。
面接を見たことがある者なら、スティーブよりもインスーのそれがいい、上手と感じる者が多いはずである。彼らが工夫した例外に焦点をあてるそれに忠実なのはインスーであると。しかしインスー自身は常にスティーブを治療家として研究者として最大の敬意を払っていたし、ファンクラブのリーダーのようでもあったと思う。
インスーに、年齢を尋ねた。歴史に残る、われわれの領域での人物の中で、インスー・キム・バーグこそは、そこに並びうる東洋の臨床家であると思い、辞書の人名欄に載せるべく、ご自身の年齢を尋ねたのが、最後のやりとりだった。この時、インスーは、「西洋では、女性には、年齢はきくものではないのは知っているでしょう」と冗談を込めての、長文の返事があって、さてどうきき出そうかと、楽しみにしていた矢先であった。


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