ベイトソンの現実認識について   1990.3

佐藤悦子

 「我々が知り得るのは観念と、観念同志を結びあわせる規則性だけだ」とベイトソンがいう時、彼の現実構築主義者としてのスタンスは明白だ。ベイトソンは、我々が現実を認識する時には、それまでの経験から得られた範晴(フレイム)によって、ことばを使って物象(事物と事象)にレッテルを貼る(記号化)という。ここまでならベイトソンでなくとも、知覚の選択性を信ずる科学者なら誰でも言えることだろう。ベイトソンの偉大さは1950年代に、記号化は「関係が保存される形で行なわれる」とみたことにある。ベイトソンにあっては″関係の先行性″が最優先事なのであった。

 関係には空間的に区別される相違と時間的に区別される相違がある。ベイトソンは、前者を外的事象間の形態的関係に存在する″差違″、後者を外界物間あるいは外界物と我々々(観察者)の関係に起きた″変化″と呼んだ。我々が知覚できるのは″差違″や″変化″のみであり、これらの概念は関係という相互性なしには存在することができない。

 例えば、我々が銅版上の点の集まりにすぎない電送写真を″樹木″と知覚するとしよう。この場合知覚されたのは、樹木と他の事象(例えば背景の空)の間の″差違″か又は、樹木と観察者である我々との関係の″変化″である。

 同じ事象について二人の観察者が結ぶ像は同一ではないし、同一人でも同じ事象について異なった像を結ぶ。このように差違は常に増幅されることで我々の現実認識を共同性の高み(客観性)へとひき上げる。ベイトソンが「情報の基幹単位は差違を造る差違である」という時、彼は現実認識における範鴫としての探索性を我々に指示すると共に、彼自身の知の探索様式を自己回帰的に指し示してもいるのである。

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